ノーベル文学賞を受賞した、カズオ・イシグロ氏は言っていた。
「その人がその人たる所以は、記憶である」と。
私は職場で、この言葉の真意を何度か、目の当たりにしてきた。
80代半ばのMさんは、最初にお会いした頃は
物静か…というより、自ら話しだすことはほとんどなく、スタッフが声をかけると、小さな声で「ハイ」とか「…ウン」と返ってくるだけだった。
ところが、懐メロを皆で歌ってみると
彼女の顔から、ボロボロ…涙があふれて止まらない、
ハナミズも止まらない。下を向き、濡れたティッシュの山。
私は、あれほどの涙を、人が亡くなった時以外に、見たことがない。
まるで、体の底から糸をたぐり寄せるように、記憶を取りもどし
そして、自分を取りもどす。
あの彼女の涙が、どれほど不安な日々を送っているのかを物語っている。
Mさんは、その後トイレでハナ唄を歌うようになり、
短い会話も可能になり、やがて特養に移って行きました。
私は、ノーベル賞の季節になると、あの、イシグロ氏の言葉を思い出します。